素を以って、絢と為す
「素を以って、絢と為す(そをもって けんとなす/けんをなす)」とは、『論語』にあることば。鈴木絢音さんが、中学時代にこのことばを知り、自らの名前をさらに好きになるきっかけとなった。
父に聞いてみたところ、綺麗な音のように人を和ませる存在になるようにと、煌びやかや美しいを意味する絢と音で絢音と命名したそうです。
総画数の運勢は中吉だったそうですが、女の子は結婚をして名字が変わるからということで画数はあまり気にしなかったそうです。
余談になりますが、中学時代、孔子について勉強した際に「素を以って、絢と為す」という言葉に出会い、私は絢音という名前をさらに好きになりました。 — 夜船 、 乃木坂46 鈴木絢音 公式ブログ]
この言葉には2つの解釈が存在している。「絵を描くときは白を最後に加えて仕上げる」というものと、「白い土台の上にあとから色とりどりの絵を加えるものだ」というものである。
原文
子夏問曰:「『巧笑倩兮,美目盼兮,素以爲絢兮。』何謂也?」
子曰:「繪事後素。」
曰:「禮後乎?」
子曰:「起予者商也,始可與言《詩》已矣。」 — 『論語』、八佾第三 三之八
書き下し文
子夏問うて曰く、巧笑 倩 たり、美目 盼 たり、素 以 つて絢 を爲 すとは、何 の謂 ひぞや。
子曰く、繪 の事 は素 きを後 にす。
曰く、禮 は後か。
子曰く、予 を起 こす者 なり。商 や始 めて興 に詩 を言 ふ可 きのみ。
解釈その1
各種国語辞典では、「最後に白を加えて仕上げる」説が採用されている。
【絵事は素を後にす】《「論語」八佾(はちいつ)から。「素」は白色の意》絵を描くとき、さまざまな色を塗ったあと、最後に白粉を用いて色彩を鮮明にして浮き立たせるように、人間もさまざまな教養を積んだのち礼を学べば、教養が引き立って人格が完成する。 — 小学館デジタル大辞泉
【絵事は素を後にす】〔「論語八佾」。「素」は白色の意〕絵は最後に白色を加えて完成させるように、人間も修養を積んだうえで礼を学ぶことにより人格が完成する。絵の事は素(しろ)きを後にす。 — 三省堂大辞林 第三版
【絵事は素を後にす】(「論語‐八佾」の「子夏問曰、巧笑倩兮、美目盼兮、素以為レ絢兮、何謂也、子曰、絵事後レ素、曰礼後乎」による。「素」は白の意) 絵をかくときは、白い色彩を最後に加えて、全体をひきしめ完成させる。人間もさまざまな教養をつんだ上に、礼を学べば、それまでの教養が引き立って人格が完成する意。 — 精選版 日本国語大辞典
「巧笑倩兮、美目盻兮」という句は、『詩経』「衛風」「碩人篇」にある。その言葉の意味を、弟子の子夏(別名:商)が孔子先生にお尋ねした。「巧笑倩たり、美目盼たり、素を以て絢を為す(笑顔のえくぼと口元が美しく、すてきな瞳の白目と黒い瞳がくっきりとしている。最後に白を加えて色鮮やかにする)」という詩がありますが、どういう意味ですか。
先生はこう答えられた。「絵を描く場合、白を最後に加えて仕上げるよね」
子夏が言った。「礼が最後の仕上げになるということですか?」
先生はおっしゃった。「私にいろいろ気づかせてくれるね。商(子夏)は、はじめて一緒に詩経について話せる者といえる」
解釈その2
渋沢栄一の著書では、「白い土台の上に絵を描く」という解釈を採用している。
子夏問曰。巧笑倩兮。美目盼兮。素以為絢兮。何謂也。子曰。絵事後素。曰。礼後乎。子曰。起予者商也。始可与言詩已矣。【八佾第三】
(子夏問うて曰く、巧笑倩たり、美目盼たり、素以て絢を為すとは何の謂ぞや。子曰く、絵の事は素より後にす。曰く、礼は後か。子曰く、予を起すものは商なり、始めて与に詩を言ふべきのみ。)
この章句も礼に関したものであるが、巧笑倩たり以下絢たりまでの句は、逸詩と申して詩経に漏れて載らなかつた詩であるが、其意は、一たび笑へば其口元倩として忽ち万人を悩殺し、目元の美しく涼しいところは実に盼たるの美人でも、その微笑める口元とか或は又目元の美しい表情とかは抑〻末のこと、美貌の根柢になるものは生れついて持つたる明眸皓歯の天質である。これに粉黛衣服の絢を加へて茲に初めて美人の美人たるところが発揮せられるるものだといふにある。然るに、孔夫子の御弟子の子夏、即ち商は、「素以て絢を為す」の字句を「素が直に絢となる」との意に解し、甚だ合点の行かぬのに疑を発し、近頃の言葉でいふ認識論的の質問を孔夫子に持ちかけたものである。然るに孔夫子は例の気の利いた答弁振りによつて之に対し、恰も顧みて他を曰ふが如くにして「絵の事は素より後にす」と答へられ、絵に於ての大事は先づ粉地を作り、純白の素地を調へるにある、五彩を施して之を絵にするのはそれから後のことだと申されたのである。 — 渋沢栄一、『実験論語処世談』より
(解説部分現代語訳)この章句も礼に関したものであるが、「巧笑倩たり」以下「絢たり」までの句は、「逸詩」と言って、『詩経』に漏れて載らなかった詩である。
その意味については、「ひとたび笑えば、その口元はかわいらしく、たちまち万人を悩殺してしまう。目元の美しく、涼しいところは、実にくっきりとしている」という美人でも、その微笑んだ口元とか、目元の美しい表情とかはそもそも些末なことである。美貌の根底にあるものは、生まれつき持っている明眸皓歯(美しく澄んだひとみと、歯並びのきれいな白い歯=美人のたとえ)の天性の素質である。これに、お化粧や衣服の絢(色とりどりな様子)を加えて、ここにはじめて美人の美人たるところが発揮されるのだ、ということである。
ところが、孔子先生のお弟子さんの子夏、別名・商は、「素以て絢を為す」(素があってはじめて絢となる)の字句を「素が直に絢となる」(素=白がそのまま直接絢となる)との意味に解釈し、どうも納得できないために疑問を抱いた。そして、近ごろの言葉で言えば「認識論」的な質問を孔子先生にもちかけたのである。ところが、孔子先生は気の利いた答弁でこれに対し、あたかも他のことを言うようなふりで「絵のことは素より後にする」と答えられた。絵において大事なことは、まず粉地を作り、純白の素地をそこにあつらえることにある。五彩(いろいろな色)をほどこしてこれを絵にするのは、それより後のことだとおっしゃったのだった。